昭和54年9月23日 朝の御理解
御理解第68節 「神参りをするに雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬその辛抱こそ身に徳を受ける修行ぢゃ如何に難有さうに心経や大祓を上げても心に真がなければ神に虚言を云うも同然ぢゃ柏手も無理に大きな音をさせるには及ばぬ小さい音でも神には聞こえる拝むにも大声をしたり節をつけたりせぬでも人にものをむ言う通りに拝め」
信心させて頂く者は、第一に真でなからなければならないと言う。真心でなからなければいけない。同時に辛抱力を作らなければならない。三代金光様が信心には辛抱する事が一番大切でございますと教えておられます。
だからその辛抱力を作らな。只今日は雨が降るけん、風が吹くからと言うてヘコタレるような事ぢゃいけないぞとね。その辛抱こそ身に徳を受ける辛抱の力、辛抱の徳を受けるのぢゃと。その辛抱こそ身に徳を受けるのぢゃと。
同時にならそれが段々真の追及。真心の追及をさして頂いて、これはまだ真が足りんのだ。これは自分の真心が本当なものぢゃないんだと、気付かせて頂くたんびに改まっていくと言う事が大事だと、大体この御理解はその二言を芯に教えておられるんだとこう思うんです。信心にはだから真が追及される。同時に辛抱力が求められる。 昨日の研修の時に梶原先生が発表しておりましたが、昨日一時の御祈念の時にお知らせを頂いた。そのお知らせと言うのがZ『こう大きな二階建の家があるその二階建の上に大きい丸い御紋章がかかっておる。紋章がその紋章が丸い輪を書いて、わらじが一足ね。ワラジです。ワラジと言う事は知っとんなさるでしょうね。ワラで作った履物ですね。昔の人達が旅をする時に必ずワラジを履きました。そのワラジに紋章がかかっとった』 どう言う事でしょうかと言う事でした。
それで私は先生に色紙に和楽路と書いてやりました。そして和楽路の信心と言う事。和楽路とは和楽の道と書いて平和の”和”、らは合楽の”楽”、路はこの道路の”路”ですね。道路の路、和楽路。だから金光教の信心は和楽の路なんです。まあ特に合楽理念はこの和楽の路を特に説くわけです。
だからお互いの信心がですね。本当に心が和らいでおったらさぞよかろうと。と言う事は心が和らいでおったらどんな場合でも有り難いなあとか勿体ないなとか、神様がこんなにして力をつけて下さるとか。と言うふうに受けられるんです。
心が和らいで信心で言う和らぎですよ。普通であのう一般で言うあの和とはちがうです。普通の平和の和とはちがう。字は同じだけども金光教で言われる和とはどこまでもね。和賀心の和とです、あの和賀心の和と言うのはね。それこそ壊れないものです。
ある修行生の方がここへもうそれこそ合楽合楽ともう思いを募らせて、丁度学院にまで修行中にその夏休みを合楽で修行したいと、もうそれこそ皆が飲んだ洋酒瓶とか一升瓶とかその瓶をずっともろうて集めて、そして合楽までの旅費を作って。そしてもう一心の思いで合楽に参って来たんです。
ここへ着いたのがもう十二時過ぎだった。それで電気が消えておる合楽に入って、もう何か知らんけれども、身体がジ-ンとしびれるような思いがしたと。そしてその手洗いの所から脇殿の所から入って、こう見ると長~い廊下が続いておる。もう何かその長い廊下を真っ暗い、薄暗い中に見せて頂いたら、もう身体が何かしびれるような思いがして御神前に出て御祈念をさして頂いたらね。御神前いっぱいにです。Z『平和奈心』と頂いた。
平と言うのは平、ひらたい。一を書いて八を書いて十と言う字と言うふうに読めるように頂いた。いわゆるタイトルがついてるわけです。普通こう平ね。一の字を書いて八の字を書いて十の字。 最近合楽で言われる十字架をプラスにしていけと言われるですね。十字架ではいかん。難儀を背負い続けるのではいけん。それを十の字にしていかなきゃいけん。もう一から始まって八と言うのは広がりに広がると言う意味なんです。それにいよいよプラスにしていけと平和の平と言うのはそう言うタイトルがついておったと言うのです。和と言うのはね。もうそれこそ鉄筋が中に入っておるだろうかと言うような、その言うなら鉄筋コンクリ-トで作ったような感じの和と言う字であったと。
私その時に初めてお道で言う和賀心の和と言うのはね。さっきからまでは和ぢゃったけども、もう一時間後にはもう和ぢゃないと言ったようなものは和ぢゃない。あの人はなかなかおだやかな人と言ってもそれとはちがうわけ。すぐ何かありゃすぐシュンとする。どうかあればすぐ腹が立つと言ったような和ではないと言う事。
金光教祖が言われるおかげは和賀心にありとほどに決めておられますから、そのおかげの頂ける和と言うのはどんな場合であってもいわゆる不壊のもの。壊れないもの。いつも神様ありがとうございますと。どのような事の場合でも御礼が言えるような心であったと言うのです。
和の心と言うのはそう言ういうならば私共の心の中に壊れない、そういう心をお互いに目指していく為にはです。どうしても真でなからなきゃならんと同時に辛抱力を頂き。いわゆる徳を受けなければ出来るこっちゃないね。その辛抱こそ身に徳を受ける修行ぢゃとおっしゃる。
そしてその平和の心の平和奈と言うのは奈良の奈と言う字が書いてあった。それをタイトルに大きく示すと書いてある。奈良の奈と言う字は大きく示すと書いてあるでしょうがね。言うなら信心のないところから信心を始める。一から始めてそしてそれが段々広がりに広がっていって、それにいよいよプラスするようなおかげを頂いて、自分の心はいやが上にも和の心になっていく事の喜び楽しみ。そう言う信心をいうならばね。世界万国に広げていけよと言う事。ここで和賀心時代を創ると言う事は、そう言う事なんです。大きく示して行けと言うのですね。
心と言う字がまた平和奈心。心と言う字はね。八の字ばっかりで書いてある。八を書いて漢字の八の字に点々も八の字であったとこう言うのです。心と言う字を、八の字を書いてごらんなさい。そして点々もやっぱ八の字やったとね。広がりに広がって行くと言う事なんです。だから広がり広がって行くと言う事は親の代よりも子の代。子の代よりも孫の代と言うようにですね。いよいよ子孫繁昌、家繁昌の道と言うものを体得して行こうと言うのがお道の信心です。 はあそげなおかげを頂くとなら、そらにゃ難しいかろと、こう皆が思います。ところが合楽理念を以てするとやろうと思えば誰でもやって行ける。合楽理念を以てすると誰でも、そう言う道を自分のものにしていく事が出来る、そう言う道が開けてくると言うのが合楽理念なんです。そこでです。いわゆる梶原先生が頂いておると言う二階と言う事は、一階から二階そして三階、信心の段階を示したものであろうと。
信心を一段一段高うして行かなきゃいけない。梶原先生の場合は今は二階のところであろうね。そこには丸い紋章がかかってその紋章には丸いワラジが一足こう図案化されたワラジが書いてあったと、こう言うのである。ならその和楽路。丸いと言うのは和の心でしょう。和楽路と言うのは今申しますように和楽の路なのである。
和らぎ楽しみね。喜びながら開いていけれる道であるね。ここまで私が皆さんに聞いてもらいましたからですね。ははあ一番最後に先生がどげん言おうと思いよるか分かるでしょう。分かりますか。 ここまではお話しなんです。だからこれから先皆さんがね感じる、ああ信心なこれだと。分からなければいけんのです。最後の一言を私がどう言おうと思とるですか。そう言う有り難い広がりに広がって行く道。しかも子の代よりも孫の代に広がっていくほどしの道の開ける元と言うのはもう大変な人間業では出けないような修行しなければならんと言うのではない。
信心はそれこそ嬉しう楽しう有り難うしていくものだと。和楽の路と言うのはそう言う心で、それこそ昨日もある方が参って来たね。もう、それこそ顔見たばかりでもう悲しそうな顔をして信心が分からん。また家庭のいろんなおかげが受けられんと、こう言うから私、あなたのお取次さして頂きよるとね。何か私まで悲しうなるね。ここにはね言うならば金借りるごたる信心ぢゃなかよと。ここには銀行に金でも預けげに来るごたる気持ちで、だから今日ただ今からね。帰りがけ道々あれもおかげであった、これもおかげたい。思うてみると、あれもおかげであったたい。
明日はお参りをさせて頂いたならどう言う事を一番に御礼を言おうかと言う事をもう今ただ今から考えなさい。明日また参ってくる、福岡から毎日参ってくるんですね。明日参って来た時にはもう兎に角、親先生と御礼を申し上げる事ばっかりのようなおかげを頂かなければここに参ってくる値打ちはないよと。まるっきりあんた、もう貸してもらえん金を無理言うて借りたいち言うごたる顔しとるばい。あんたはね。それよりかここにはお金を預けげに来る。そんなら、自分の身に徳がついて行く。預金が出来ていく事を楽しみに言うなら参ってくるような信心に切りかえなきゃいけないね。その為にはね。いよいよ本気にならなけれはならない。いよいよ本気に改めてね。はまらしてもらわなければいけない。 先日から信心の内容ははまりだ。また本気だ。晩に寝ませて頂く時でもです。夕べ私が寝ませて丁度霊様の最近は早いです。一時半でした。それからいろいろ御用そして頂いたから寝む時には二時でした。ですから一時間あまりしか寝んどりませんけども、本気で願うです。明日もどうぞ三時には目覚ましのおかげを頂きますようにと言うて、本気で願わなきゃダメです。 もうそれこそグッスリ今朝なんかは、あのう寝んどりましたら、耳元にプ-ンと言うて蚊が飛んで来て耳の中に入っとる。蚊がそんな感じでした。蚊だったかどうか知らんけど。それで目が覚めたら三時でしたと言うようにね。本気で願わなきゃだめです。お願いしとったばってん目覚ましのおかげ頂かんぢゃったけん、今日はもう神乍らでゆっくりと寝たっちゃよかっちゃろ、てんなんてん言う人がありましょうが。 自分のよか方にばっかり、開げていくとが、昨日の御理解で言うと七の字になりよると曲げていきよる。だから七がつながるけん七七、四十九でいつも始終苦で始終苦労しとかなんならん。自分でいい加減に曲げるけんです。十の字になるものを曲げては七の字になる。
昨日の御理解は七の字を二つ頂いた。九十九節でしたね。苦に苦が重なる。七七、四十九でいつも苦労と言うのはそう言う、いうなら真っ直ぐに引かにゃいかんのに曲げよるけん。そう言う事になるたいと言うような御理解でしたもんね。
昨日の御理解は私共の信心の中にです。本気でと言う事とね、はまる、信心には、はまる。そこから楽しい、嬉しい有り難い愉快なと言う道が開けてくるのです。これは何の稽古でもそうです。一つの稽古をするとにはまって稽古しなければ稽古そのものがきついものになります。
そこで私が最後に一口言おうと言うのは兎に角お互いの信心が和楽路ばきであるかどうかと言う事なんですね。梶原先生が昨日頂いておるのはです。折角修行さしてもらうならば本気ではまって、それこそワラジばきの信心をせよと。その和楽路ばきの信心には必ず和楽の道がおのずとついてくると、和楽路である。
ね皆さん、和楽路ばきの信心をせんとね。それこそ雨が降るとジュッとする、風が吹いたらもう起きろごつなかごつなってくるね。雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、その辛抱こそ身に徳を受ける修行とおっしゃるのですからね。それこそ雨が降ったり風が降いたり何かそこに参られんような問題が起こった時には、はあこげん時がお徳を受けられる時ばいのと思うて、それを乗り越えてお参りをするような信心姿勢をね、作らなければいけんと思います。「どうぞ」